日本心臓財団刊行物

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耳寄りな心臓の話(第40話)『弁膜症が揺らしたダンディズム』

『弁膜症が揺らしたダンディズム 

 

川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)40図1.jpg
 


 

 ダンディズムは18世紀末から19世紀初頭にかけて英国に端を発した伊達好みの気風であり、ダークカラーと洗練された服装が好まれました。フランスのローマン派の寵児となったド・ミュッセは詩才もさることながら、夢見るような瞳とすらりとした体付き、お洒落な服装から、彼の仕草やスタイルが社交界でしばしば話題になったようです。ド・ミュッセ自らの発案というフロックコートに身をつつみ、歩きながら首を前後に揺する姿も、粋な仕草としてまねる者が続出したといいます。医学界でも、血圧の変動で首が揺れる様を(ド・)ミュッセ徴候として大動脈弁膜症の診断に役立てているのです。



イギリスの伊達男ブランメル
 アメリカの独立で領土を失うなどの失政を招いたイギリス国王ジョージ3世は精神障害に陥ったため、長男が国王に代わって政治を執り行なう摂政(せっしょう)皇太子(プリンス・リーゼント)を務めました。この皇太子の友人だったジョージ・ブランメルは19世紀初頭のメンズ・モードに多大な影響を及ぼしたイギリスの代表的なダンディ男で、ボー(beau、美男子)・ブランメルと呼ばれて、数々のドラマにもなっています(図1)。一方、放蕩と浪費で悪名が高く後にジョージ4世となる摂政皇太子はイートン校の同期だったブランメルとともに、伊達好みの気風であるダークカラーと無駄のない洗練された服装でダンディズムを興した一人とされています。

 摂政皇太子の誕生を祝って整備されたロンドンの大通りはリーゼント・ストリートと命名され、この街の若者の間で流行した前髪を高く盛り上げポマードで後頭部をピッタリ合わせる髪型は膨らんだ後にピカデリーサーカスに合流する新しい大通りに似ていることからリーゼント・スタイルと呼ばれ、1950年代にもロカビリースタイルとして再度登場しました(図2)。
  日本のサッカーJリーグの発足に伴い仙台からは独眼竜の伊達政宗公の土地柄だけに伊達男のブランメルにかけて「ブランメル仙台(Brummel)」で参入しましたが、ブランメルに商標権侵害の恐れが出たことで、5年後には仙台七夕ゆかりの織り姫(ベガ Vega)と彦星(アルタイア Altair)から造語した「ベガルタ仙台(Vegalta)」と改名して一時はJ2に降格したものの、2009年にはJ 1に復帰し現在に至っています(図3)。40図2と図3.jpg


フランスの洒落男ド・ミュッセ40図4.jpg
 フランスの詩人アルフレッド・ド・ミュッセは詩才もさることながら夢見るような瞳、上品な容貌、すらりとした体付き、お洒落な服装などから、彼のダンディなスタイルが社交界ではしばしば話題になりました。この自ら考案したというフロックコートに身を包んだ美青年が首を前後に揺する姿も、洒落男の粋な仕草ととられたようです(図4)。
 ミュッセは当時台頭したダンディズムの実践者でもあったわけですが、男装の麗人として登壇したばかりの女流作家ジョルジュ・サンドの母性本能をくすぐったようです。共同生活の中で多くの話題を残したミュッセとサンドの関係も、繊細な鍵盤技法でピアノの詩人とうたわれたショパンの登場で破局を迎えました。ミュッセによる『世紀末の告白』はサンドとの不幸な恋を描き、恋愛詩人の面目は最期の戯曲となった『戯れに恋はすまじ』に結実しているようです。
 ジョルジュ(ジョージ George)という男性のペンネームとは裏腹に、サンドは甲斐甲斐しい女性だったようで、病に苦しむショパンを伴っての地中海に浮かぶマジョルカ島への逃避行は『マヨルカの冬』に結実して不滅の名作と評されました。「エチュード」、「ノクターン」などの名曲を残したショパンは結核のために39歳の生涯を閉じ、同い年生まれのド・ミュッセも8年後に47歳で心不全でなくなり、6歳年上だったサンドは72歳と当時としてはすこぶる長生きしたようです。

首がゆれるド・ミュッセ徴候
 弟ポール・ド・ミュッセの回顧録によれば、兄アルフレッドの首の揺れる異常運動については、兄が32歳の時に母親らとの朝食中に気付いたと述べています。首の揺れを指摘したところ、アルフレッドは親指と人差し指を首に押しつけ、それで揺れが止んでしまったというのです。アルフレッドは、「見たァ、こんな物凄い病気でも全く単純でしかも只みたいな方法で治ってしまうんだゼ」と家族を笑わせたといいます。40図5.jpgのサムネイル画像
 大動脈弁からの逆流量が多い例では、左心室からの一回拍出量は多いのですが次の瞬間に引き潮の如く弁膜から逆流してしまうために容積が急減することで血圧が大きく変動し首が揺れる現象は理解できます。社交界で評判になった彼の首ふりの姿も、後に(ド・)ミュッセ徴候として医学界では重宝したのです。大動脈弁膜症による心不全と大量の飲酒によるためか最期の2年間は病床に伏し、47歳でパリで亡くなりました。花柳病によって大動脈弁が破壊されたことによる大動脈弁の閉鎖不全が死因だったようです。ローマン派を代表するダンディズムの旗頭として名声をほしいままにした世紀の恋愛詩人も花柳病という意外な男の勲章を付けていたことになります。服飾を学ぶ学園などでは、今でもローマン詩人ド・ミュッセがダンディズムの代名詞になっており、またフロックーコート発案者としても掲げられているようです。当時は男の勲章と容認された病気であっても、花柳病が原因の弁膜症とあってはダンディズムの艶消しにならないか心配なところです。


当意即妙の診断
 大動脈弁膜症はリューマチ熱のほか動脈硬化症、変性、梅毒性の大動脈炎などによって引き起こされます。大動脈弁がしっかり閉じない閉鎖不全では、左心室から弁を通過して大動脈に送り出される拍出量は大きいのですが後半で一部が左心室に逆流してしまうために、緊張した動脈は急に萎えてしまいます。健常な人の血圧は130/80mmHg程度ですが、大動脈弁の閉鎖が不完全の場合には一度は左心室から駆出された血液の一部が逆流してしまうために、大動脈血圧は150/50などと逆流量に応じて拡張期圧(最低血圧)が減少し、収縮期圧(最高血圧)が幾分上昇するのです(図5)。収縮期圧(最高血圧)と拡張期圧(最低血圧)の差(100)を脈圧といい、大動脈弁閉鎖不全では脈圧の大きくなるのが特徴です。脈が大きく強く速く触れ、頸動脈など部位によっては動脈の拍動が見えることがあります。血圧計も聴診器もなかった時代には、心臓病といっても視診と聴・打診それに脈診に頼るしかありませんでした。既述の(ド・)ミュッセ徴候を習得していれば、患者さんが黙って座ってただけでピタリと当たる当意即妙の名医となることができたのです。 
 
 

 
 
摂政皇太子の誕生を祝って整備されたロンドンの大通りはリーゼント・ストリートと命名され、この街の若者の間で流行した前髪を高く盛り上げポマードで後頭部をピッタリ合わせる髪型は膨らんだ後にピカデリーサーカスに合流する新しい大通りに似ていることからリーゼント・スタイルと呼ばれ、1950年代にもロカビリースタイルとして再度登場しました(図2)。
 
  


 

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