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耳寄りな心臓の話

耳寄りな心臓の話(第41話)『心臓からタイムの香りが』

『心臓からタイムの香りが 


川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)

 

  フランス料理の珍味とされるリー・ド・ボーの食材は子牛の胸腺肉であり、その胸腺を欧米ではサイマスとかチームスと呼んでいますが、なんとハーブのタイムに由来しているといいます。古来、タイムは神聖な植物として神々に献じられる由緒あるハーブなのです。幼いときには心臓前の胸一杯を占める大きな胸腺ですが、成長とともに退縮して消え去る運命にあります。しかし、免疫反応では束の間とはいえ中心的臓器としての大役を演じ、胸腺由来のT細胞にもその名を残しています。41図1.jpg



タイムは勝利のお守り
 タイム(thyme、学名はthymus vulgaris) はチムス草とも呼ばれて独特の芳香を放って殺菌力も抜群で,乾燥した茎や葉はハーブ、香辛料として料理のほかに薬用にも利用されます。日本には江戸時代に薬草として伝えられ、その香りからジャコウソウと呼ばれます。
 時々参加している体験農場・ファーム山中湖のハウスにも多くのハーブ類が植えられており、その中にあって小柄な花と葉をつけて余り目立たないタイムですが、古典的には輝かしい歴史があるのです(図1)。
 ローマ神話では、タイムは軍神マールスと愛の女神ビーナスに献じられた神聖な植物とされ、「あなたにはタイムの香りがする」といわれるのが最高の賛辞だったようです。また、戦いに向かう騎士に淑女たちがタイムの小枝を勝利のお守りとして渡したとされます。一方、無理な結婚を強いられて13歳で殉教死し、少女たちの守護聖者として崇められる聖アグネスの祝日(1月21日)の前夜に、結婚をと夢見る相手の袖にそっとタイムの枝をしのばせるか、タイムを入れた靴をベッドの両脇に並べて休むと願いが叶えられるなどと、乙女心をくすぐるハーブでもあったのです。
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珍味の一品、リー・ド・ボー
 ところで、フランス料理の珍味とされるリー・ド・ボー(ris de veau)は仔牛の胸腺肉をマデラソースなどを使ってソテーにしたもので、同じ珍味とされるフォアグラとは一味違った独特の柔らかさの中にも歯応えのある味わい深い一品です(図2)。
 生後1年までの仔牛の胸腺と限定しているのは、出生直後は大きな組織だった胸腺も成牛になるにつれて退化して殆どなくなってしまうからです。
 この料理の下拵えで胸腺肉を血抜きして臭みをとるのに、乾燥したタイムを大量に用いるのだといいます。動物の胸腺が植物のタイムと同じにサイマス(thymus, 英)やチームス(Thymus, 独)と呼ばれるようになった経緯については、胸腺肉からタイムの香りがするからという説と、胸腺の割面がタイムの花芽に似た構造をしているからという2説があります。いずれにしても、チームス肉の下拵えにチムス草を用いるという面白い取り合わせがあったものです(図3)。41図3.jpg
 

胸腺生まれのT細胞
 食材の胸腺肉を医学の俎上に乗せるのに些か躊躇しますが、この胸腺に由来するT細胞について触れなければなりません。感染症などの病気に罹った後に二度と罹患しないように抵抗力を獲得する現象が免疫ですが、その免疫に関わる免疫細胞群のリンパ球にT細胞やB細胞があって主役を演じています。
 このT細胞のTは胸腺(thymus)の頭文字からで、胸元にある胸腺で免疫機能をもつリンパ球として分化・増殖することから命名されたものです。もう一つのB細胞は鳥の曩(bursa)あるいは骨髄(bone marrow)に由来することから名付けられたものですが、なんといっても胸腺が免疫反応の中心的臓器であることに変わりはありません。
41図4.jpg 人の胸腺も幼児期には最大重量30gもあって心臓の上方前面に広く横たわり、胸部X線写真では心臓並みの大きな陰影を作ることがしばしばです(図4)。ところが、この大きな胸腺も思春期までには萎縮し、成人ではほとんど分からなくなってしまうのです。したがって、乳幼児の心臓手術では心臓の上方全面に横たわる大きな胸腺に術野を妨げられることもしばしばで、やむをえず大きな胸腺の一部を移動したり部分的に切除することもありましたが、タイムの香りに気付いたことは一度もありませんでした。そこで、遅ればせながら、ヘルパー、キラー、サプレッサーなどのT細胞をたくさん試験管に集めて研究している今をときめく免疫学者にお願いして、実験中にタイムの香りが漂うことがないかどうかを確かめたいものです。
 

瞼が下がる重症筋無力症
 夕方近くなると軽い運動でも容易に筋肉が疲労し、休息することで回復する疾患に重症筋無力症があります。瞼が下がり、ものが二つに見えたり嚥下障害の現れることもあり、20~40歳女性に多く、難病の一つに指定されています。
 神経末端と筋肉との接合部で神経伝達物質であるアセチルコリンの分泌異常によって起こるとされる自己免疫疾患の一つで、胸腺の異常とくに過成形や胸腺腫を伴うことが多いのです。かつては“重症”という名前のとおりに難治性でしたが、この20年間で病態生理の解明も進み、胸腺摘出術やステロイド療法、免疫抑制剤治療、放射線治療、血漿交換療法、ガンマグロブリン大量療法など病態に応じた適切な治療を行えば完全治癒も期待できる疾患となっています。
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胸腺リンパ体質とショック死

 胸腺というと、少し古くなりましたが胸腺リンパ体質という言葉が思い出されます。大人になると退縮するはずの胸腺がむしろ肥大して残っているなど全身のリンパ様組織の肥大を特徴とする例を胸腺リンパ体質といっていました。
 一般に抵抗力が弱く、ワクチンや薬剤の注射、抜歯などの軽微な外傷や僅かな刺激にも過敏に反応し、時には命を落とすこともあるとされたものです。
 抗生物質が初めて世に送り出された頃には、ペニシリン・ショックなどがしばしばニュースになり胸腺リンパ体質が原因なのではと世間に騒がれたものです。しかし、その後の研究では胸腺やリンパ節の肥大と抵抗力の減弱との関係は不明であり、胸腺やリンパ節の肥大そのものを異常体質の原因とすることに疑問視する意見も少なくありません。
 現在では副腎皮質の機能不全との関係が重視され、副腎皮質ホルモンの連用例などでは「急性副腎不全」によるショックに陥ることが警告されているのです(図5)。
 
 

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