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ドクターのつぶやき

ドクターのつぶやき-高齢者の思案篇-

ドクターのつぶやき 高齢者の思案篇

‐あふれる涙‐

 最近、涙があふれるようになった。悲しい情景に出会ってのことであれば、まだしもであるが、なんでもないときにしばしば涙を拭う。鼻涙管閉塞の症状である。鼻涙管閉塞は加齢現象といわれている。涙が出すぎるのではなく、涙の排泄が損なわれているために、涙が目に溜まりやすいのである。

  先日、神風特攻隊を題材にしたテレビドラマをみた。古い時代の映像が幾分かの涙を誘ったためか、涙があふれて照れくさかった。病院の外来では、涙が出ないと悩む乾燥症候群の方がときにある。涙があふれる思いをするのは幸せなことなのである。
  臨終の人が呼びかけられて、涙が一筋、頬を流れるというシーンがある。感動的な場面である。これも鼻涙管閉塞症状なのだと思いながら見ているのであるが、自分もまた、こうして感動的なお別れをすることになるのは悪くはないと思っている。(2005年11月号掲載)


‐席を譲られる‐

 最近、席を譲られることが多くなった。バスの行きにも、帰りにも席を譲られたことがある。大丈夫ですか、と声をかけられたこともある。
  気になって鏡を見る。髪は薄く、しわしわではあるものの、そんなに年寄りには見えない、と自分では思う。
  先日は満員のバスに乗ったとたんに、運転手に、「お歳を召した方がお出でです。席をお譲り願います」といわれ、恥ずかしくて、隠れたくなった。

 しかし、一方、荷物を置いて、2人分の席を占有して知らん顔の人もいる。
  席を譲られて、恐縮する一方では、私はそれほど、憐れにみえるわけではないのであるが、車中における道徳教育の一環として席を譲られるのであり、自分はその材料となっているのである、と思うことにした。(2007年1月号掲載)


転倒

 このごろ、ときに、何でもないところで転ぶ。先日も、一寸、急いだら、つんのめって転んでしまい、両手、膝と顔にまで擦り傷をつくってしまった。そばを歩いていた若い人が寄ってきて、大丈夫かと声をかけてくれた。有り難かったが、恥ずかしかった。日頃、患者さんに、転倒しては駄目ですよ、骨を折ったら寝たきりになりますよ、と警告していたのであるが、自分がその立場にあったのであった。

 孫娘たちが幼かった頃、彼女らもよく転倒した。その頃、彼女らは朝、私が出勤するときに、自分たちがいわれるように、「転ばないようにね」とバイバイしてくれた。これはその後、今にいたるまで、出かけるときの年寄りたちの合い言葉となっていた。今度の転倒事故のとき、たまたま里帰りしていた大きくなった孫娘から、出かける私の背中にとんできたのは「転んじゃ駄目よ」であった。 

 今朝、横断歩道で信号待ちをしていると、向こう側の道路を母親と一緒に駈けてきた女の子が派手に転んだ。立ち上がって、一寸、膝を見下ろしていたが、バッパッと土を払って、またすぐに駈けていった。年寄りでも、子どもでも同じように転倒するのは、二本足で歩くことの宿命なのであろう。違いは、年寄りは怪我しやすいが、子どもは怪我をしないということなのである。やわらかく、しなやかな子どもの身体は転んでも、平気なのだ、と改めて羨ましく思った。(未掲載)


‐後期高齢者となって‐

 後期高齢者医療制度が発足した。この制度はネーミングに悪評があった。しかし、対象者の一人として、私はそうは思わなかった。あるがままの正確な表現であると思っていた。

 弱い者にも生きる権利がある。権利とは資格があるものに、法律が賦与する力である。人に惜しまれ、愛され、生きていてほしいと思われることは生きる者の資格である。しかし一方、生命には終わりがある。動物たちは、生涯の終わりを知ると、ひそかに姿を隠す。この処し方に学ばせてほしいというのも、消えゆく時期がきた者が持つ資格であり、権利である。

 生きるものには、まだここで終わってはならないという時期と、どのように終わるかが大事になってくる時期とがある。人を支えているときの医療と、人に支えられるようになってからの医療とは異なっていて当然である。ひそやかに終わりを迎える準備のための医療のあり方が新しい制度のなかで検討されてよいのではなかろうか。

 後期高齢者医療制度が発足し、その恩恵を受ける立場におかれてからは、こんなことを考えている。(2008年5月号media版掲載)

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