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日本心臓財団刊行物

ドクターのつぶやき

ドクターのつぶやき-言の葉篇-

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つつがなく

 「つつがなく」とは旅先で恙虫病にかかることが警戒されていた時代の言葉であると教えられたよう

に思っていた。学生時代に恙虫病の講義をきいたときであったかと思う。しかし、辞書によると、「つつが」とはわずらい、災難を意味する言葉であり、今昔物語や宇津保物語にみられるとある。してみると10あるいは12世紀の頃からの言葉である。恙虫病の命名の方が後であったのではなかろうか。
 ところでいいたいのは、「つつがなく」ということの重みである。実は、節目の年毎の挨拶に、その期間を「無事」に終えたことを喜んできたのであったのが、何もしなかったという意味にもとられるようであり、抵抗感があった。しかし、「つつがなく」といっ
てみると、「異変がなかった」とか「事故がなかった」という意味になる。国の外では戦争がつづき、多くの尊い命が失われている。国内でも、空、陸、海で事故が相次ぐ時代である。「無事」であったことの意義がどんなに大きいものであったであろうか。
年頭の初詣ででは、この一年が平和で、「無事」であるように、しっかりと祈ったのであった。(2006年2月号掲載)



誤解

 

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 従兄弟同士の孫、3歳と4歳の男児はとても仲

良しである。3歳の子は北海道に、4歳の子は関西に住んでいて、たまにしか会うことはないのであるが、先日、年の暮れに帰郷してきて、二人、夢中になって遊んでいた。北海道の3歳の子は保育園で、馬鹿野郎と怒鳴った子がいて、馬鹿とか野郎というのはいけない言葉だと教えられたばかりのところだったらしい。遊びながら、4歳の子が「そうやろ?」といった。3歳の子はびっくりして、「野郎」といったと親に告げにきた。4歳の子が「そんなこといわへん」といったので、3歳の子はまたまた驚いて、「変」といったと騒いだ。
 親は、「野郎」とも「変」ともいったわけではなく、これは方言なのだと説明しかかったが、方言とは何かを説明すること自体がむつかしかったようで、断念してしまった。
 誤解とは思いも寄らない形で起こる。そして、誤解を解くのはさらにまた、難しい、ということを実感した。(2006年9月号掲載)



病気が発覚?

 若い人の書く文章にはときに、馴染みのない表現がある。先日、カルテの記載をみていて、「病気が発覚した」とあって奇異な感じをもった。「妊娠が発覚した」と書かれていたこともあった。「発覚する」というのは、隠していた犯罪行為が本人の意志に反して発見されたときにいう言葉である。辞書をみると、発覚とは「犯罪・秘密、隠し事のあらわれること」とあった。病気は別に隠していたことではない。「病気が発見された」といえばよいだけのことではないだろうか。
ただ、「妊娠が発覚した」というのは、何かしら、隠していたのがわかってしまったというイメージがあって、これはあるいは本当の表現なのかも知れないと思ってしまった。(未掲載)



まっ いいか

 10年ほど前の秋のことである。当時3才の孫娘を車に乗せて、区民農園に行った。車を降りる段になって、孫娘はすこしためらった。虫除けのスプレーを忘れてしまったのである。でも、「まっ いいか」と駈け出していった。そして、虫に刺され、瞬く間にあちこち腫れ上がらせて、悲鳴をあげて車に逃げ戻った。
 「まっ いいか」。幼い児のかけ声は可愛かった。これはその後、そして今も、私が家を出るときのかけ声となった。
 ところが、最近、気がついた。同じかけ声であっても、3才児と人生のたそがれにある私とでは意味する内容が大分、異なる。子供の場合、「構うもんか、とにかくやってみよう」というような挑戦的な意味合いがある。一方、年寄りがいうとき、それは「まあ こんなものか、これでよしとするか」といった妥協の意味になってしまう。
人生の始めにあるときと、終わりにあるときとでは、同じ言葉が異なる意味をもつのである。
 今日もいつものように、かけ声かけて家を出て、ふとこのことに気づき、思わず、苦笑してしまった。孫娘は今、14才である。そのかけ声を聞いてみたい、と思った。(2007年9月号掲載)

 

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