日本心臓財団刊行物

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耳寄りな心臓の話(第56話)『多感地帯の心臓前胸部』

『多感地帯の心臓前胸部   

川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
 

 心臓近くの左前胸部の痛みといいますと、まずは狭心症や心筋梗塞を疑いますが、心臓や肺の病気とは限らず、食道炎による胸焼けのこともあり、肋骨の病気でも胸痛に近い症状がみられます。命に関わるほどではないのですが、実に多様な訴えが前胸部を取り巻いていて、腫れ物に触るような一触即発の状態にある多感地帯なのです。触らぬ神に祟りなしの禁を破ってこの聖域に分け入り、跋扈(ばっこ)しているであろう病魔をさらけ出すことができれば、胸のつかえが下りるというものです。

ティーツェ(肋軟骨)症候群
 比較的若い成人男女にみられるもので、肋骨が胸骨につながる先端の軟骨成分が多い肋軟骨部のわずかな膨隆と疼痛を訴える疾患で、1921年にドイツのティーツェTietzeによって報告されました。肋軟骨部の血管増生と軟骨変化がみられる程度の病理所見しかなく、多くは一か所の肋骨に起こりますが、複数の場合もあります。一般に第2?3肋骨に多くみられ、それほど強い痛みではありません。多くは自然に軽快するものですが、長引いて慢性化することもあります。
 この他にも肋骨や胸郭に関係した痛みとして、鳩尾(みぞおち)(胸骨下部のくぼみで、心窩部(しんかぶ)とも)の剣状突起痛、鎖骨と胸骨を結ぶ胸鎖関節炎、胸前面を縦走する胸筋痛、咳やゴルフ・スイングによる肋骨骨折などがみられます(図1)56図1改.jpg前胸部キャッチ症候群
 1955年、シカゴの病院に勤める循環器科医から健常な男女で左前胸部痛を訴える28症例の報告がありましたが、痛む左前胸部を掴み取る格好をすることから「前胸部キャッチ症候群」Precordial catch syndromeと呼ばれています。30秒から3分ほど持続する鋭い、刺すような痛みを安静時に左前胸部に感じ、激しい運動時には起こらず、寝ている時や前屈みの時にも起こることがあり、立ちすくんでしまうものの姿勢を伸ばすと良くなることがあります。痛みは第5肋骨あたりの狭い範囲のもので、圧痛はなく、深呼吸で軽快する時と逆に増悪することがあるといいます。身体所見に異常なく、一般には余り重要視されない前胸痛です(図2、3)56図2.jpg心臓神経症
 極度に自分の心臓を意識し、心臓部の安静時胸痛(チクチク痛)、動悸、呼吸困難、不安、疲れやすさなどを訴えるものの、客観的な異常が心臓などの循環器系に認められない状態をいいます。やはり指で指せるような狭い範囲でのチクチク感を訴え、自分の心臓にたえず不安を抱き、ときには死の危機感を訴えることもあるのですが、一般に予後は良いとされています。かつて、南北戦争(1861-65)の戦場で若い兵士に頻発したことから、兵士心臓 solder's heartとも呼ばれておりましたが、心理的な要因とストレスが原因と考えられ、現在では外傷後ストレス障害(PTSD)として統一され、心理的因子を探りだすことが治療につながります。56図3と4.jpg
 
ヒステリー(子宮)球
 
疼痛、胸痛というよりも、咽頭あるいは食道に食物塊が上下する感じがするという悩ましい訴えが特徴的です。若い女性が喉に丸い塊が詰まった感じがすると訴えることから、ヒステリー球性嚥下困難と呼んでいました。喉に丸い塊が上ってくる感じがするなどのヒステリー症状は古代ギリシャでは、若い女性の骨盤内の子宮が動き回って喉にまで上ってきたもので、子宮のギリシャ語hysterosに因んでヒステリーという婦人病と考えられていました。しかし、19世紀後半になってシャルコー、バビンスキー、フロイトらの精神病学者の業績により、心因障害としてのヒステリーの本体が明らかになり、さらに神経症の概念や理論が確立され、最近になって解離性障害の一つに分類されています(図2、4)。

肋間の帯状疱疹56図5改.jpg
 比較的に高齢者に多いのですが、小児や若年者にも稀ではありません。片側性にピリピリした疼痛が数日続き、一定の神経領域(例えば肋間神経に沿って胸壁に帯状に)に一致して紅斑が出現し、数日後には水泡が多発します。10日程でびらんとなり、2?3週間で治癒します。一般に、皮疹が治ると疼痛も消失するものですが、高齢者では長期にわたって頑固な疼痛が残ることもあります。ほとんどの大人は小児期に水痘にかかりますが、この時神経節に潜伏したウイルスが成人になって再度活性化され、神経を伝って皮膚に水痘を作るのが帯状疱疹です。だれもが持っているウイルスということで、風邪や腫瘍ができて免疫力の低下した時に顔を出すということですので、疱疹の治療だけでなく全身のチェックも必要です(図1、5)。

56図6.jpg逆流性食道炎
 酸性の胃内容が食道内を逆流することによって生じる変化で、空腹時や食後、就寝中に胸焼け、苦い液の逆流、胸骨後方痛、心窩部痛などの不快な症状が起こり、内視鏡でみると食道粘膜にはびらんや潰瘍が認められることがあります。「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」のとおりに、食道は熱さには強いのですが、酸には弱いということになります。因みに、昔から用いられてきた「虫酸(むしず)が走る」、「溜飲(りゅういん)を下げる」、「愛気(おくび)にも出さない」などは、すべて胸焼け、胃酸過多症、胃灼熱感に関係した言葉です。
 満腹のまま横になったり、お腹の出た太めの人、食道裂孔ヘルニアのある人に起きやすく、夜中に痛みのために目を覚ますこともあります。70歳以上の高齢者に多くみられ、食道下部にある括約筋の機能が衰えたり、胃腸の術後だったりで胃液が逆流してしまうことが原因です。食後の体位の工夫や胃酸の分泌を抑制するH 2ブロッカーやプロトンポンプ阻害剤などの服用が効果的です(図2、6)。
 心臓前胸部にみられる痛みをまとめてみましたが、オーソドックスな狭心症や心筋梗塞のほかにも、いろいろな胸痛があるということです。いずれも胸の“うずき”程度のものですが、本人にとっては重大で生命の危機感を抱くものもあり、原因不明という言葉がかえって不安を募らせてしまう場合があります。身体的に異常所見がないことが明らかになった時点で、それぞれの痛みの特徴から原因を探る丁寧な聞き取りが解決につながることがあります。
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