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耳寄りな心臓の話(第48話)『うっ血性心不全とランセット』

『うっ血性心不全とランセット 


川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)


 

48図1.jpg ランセット(The Lancet)といえばイギリスの外科学会が発行する有名な医学週刊誌で200年近くの歴史があります。しかし、ランセットが外科医を表すメスの原型だったといっても、今では正当化されない瀉血(しゃけつ)に用いられた前時代的なものを冠としていることに批判的な声もみられます。悪い血液を抜き取り体を浄化するという瀉血は、二十世紀初頭までは代表的な治療法でした。
 中世ヨーロッパの銭湯の軒先で瀉血を主な生業としたのが理髪外科医であり、その静脈切開に用いられた両刃の尖刀がランセットだったのです。後には種痘のためにも用いられました。沖縄では民間療法として「グーグー」と呼ばれる瀉血がつい最近まで行われていたといいます。現在では瀉血によって悪い血を除くという考えはなく、わずかに鬱血(うっけつ)性心不全や真性赤血球増多症の一部に循環血液量の減量の手段として用いられるほか、腫脹した創部からのごく微量の脱血を目的としたヒル吸引療法に応用されています。


 

瀉血と三色ポール48図2.jpg
 瀉血は古くギリシャからヨーロッパに広がり、中世初期までは修道士が施療に用いていましたが、12世紀初頭になってローマ法王が施療を禁止したために、理髪師が瀉血用のランセットを開発して引き継いだのです。このように瀉血を生業としたのが理髪外科医であり、湯上がりの方が腕の静脈が浮き上がって放血に適していたことで、銭湯の軒先が主な仕事場でした。この頃、医学校出の医師は長い黒衣をまとい、白い上着の理髪外科医が瀉血のための静脈切開やおできの処理など汚れ役を担当していました(図1)。
 瀉血を行う際には血液が付着しても目立たないように初めから赤く塗っておいた棒を握らせ、湯上がり後で腕に浮き出た静脈にランセット小刀をチョンと当てると、血液が棒を伝って流れ出るという具合です。脱血が所定量に達した後は、静脈注射と同じに傷口に軽く圧迫包帯をするだけで止血します。
 たまたま乾かしていた包帯が立て掛けてあった赤い棒に巻き付いて赤白の縞模様を描いたことで、2色のポールが理髪外科医の目印になったとされています。日本を含めた幾つかの国では青が加わって3色ポールとなり、それぞれ動脈、静脈それにリンパ管あるいは神経さらには包帯を表しているのだと伝えられています(図2)。


うっ血性心不全と瀉血
 心臓のポンプ作用の低下によって心拍出量が減少し、静脈還流も減少して静脈側にうっ血が生じるために、呼吸困難や肝臓腫大、浮腫、乏尿など多彩な症状を呈するのがうっ血性心不全です。肺うっ血を主徴とする左心不全、肝臓腫大や末消浮腫を主とする右心不全に分けられますが双方を合併する両心不全となることも多々あります。急性のうっ血性心不全では、利尿剤、血管拡張剤、強心薬などにより心血行動態を早期に改善するとともに原因に対する治療も急がれます。
 利尿剤や強心剤のなかった時代には、この心不全の治療に、しばしば瀉血療法が行われたのです。王政復古を果たしたイギリスのチャールズ2世やアメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンの最期にも大量の瀉血の行われた記録が残されており、当時の代表的な治療といっても、それぞれの死期を早めたのではないかとの憶測もみられます。48図3.jpg
 
ヒルによる吸血療法
 血液を抜き取る方法には、ランセットで静脈切開を行っての瀉血のほかに、脱血量は極々わずかですがヒル(蛭、leech,hirudo)を用いた吸血療法も古くから行われて来ました。子供の頃、素足で田圃に入ってヒルに脛(すね)をかじられたことのある方には良く分かると思いますが、引き離しても傷口からの出血はなかなか止まりません。ヒルの唾液に含まれるヒルディンという物質に強い血液の抗凝固作用があるからです。すなわち、フィブリノーゲンがフィブリンに変換するのを阻止することで抗凝固作用を発揮するのです。さらにヒルが噛むことで抗ヒスタミン作用、血管拡張作用、麻酔作用が現れ、血液の抗凝固作用を助長することが分かってきました。傷跡やケロイド治療に用いられることのあるヒルドイド軟膏なども、ヒルから抽出された成分から開発されたというのも頷けます(図3)。
 ヒルによる瀉血の吸引量は格段に少ないものですが、持続して有効な点が認められて1990年頃から微小血管外科医らによって用いられはじめました。事故などで切断してしまった指の再接着後の鬱血に対して、通常の方法では対処困難な場合の吸引療法として登場したのです。アメリカでは2004年に医療用ヒルが食品医薬品局(FDA)に認可され、日本でも、あの血吸いヒルが医薬品あるいは医療材料として市販されつつあるのです。

48図4.jpg

ランセットの教訓
 「ランセット」は1823年にイギリスの外科学会によって創刊されたもので、200年近い歴史のある週刊医学雑誌ですが、手術用メスの一種である両刃尖刀のランセット(lancet)と「光を取り入れる」を含意した「鋭頂窓(lancet window)」に因んだものとされています(図4)。学術雑誌の影響度を計る指標として、他の雑誌への引用回数から導かれるインパクト・ファクターの大きさが用いられていますが、「ランセット」誌には世界の全医学雑誌の中では二番目に高いファクターが与えられています。この「ランセット」誌が幾つかの医学的事項に対して政治的な立場を取ったことがあるのです。1998年にMMR(麻疹、おたふくかぜ、風疹)ワクチン接種で自閉症が多発するという論文を掲載しましたが、日本などのように接種を4年間で中止した後の方がむしろ自閉症の自然発症率が高いことが明らかになったことから、著者が開示していなかった重大な利益相反があったとして2010年に掲載論文全体を正式に撤回しました。48図5.jpg

 さて、両刃尖刀のランセットは披針、刃針などとも訳され、語呂からの乱切刀はなかなか名訳と思われます。現在のメスに比べるとかなり細身のもので、瀉血の際の静脈切開のほか種痘などの乱切に用いられました(図5)。
 メスは外科医のシンボルであり、我々慶大外科の同窓会もメスの林立をイメージして「刀林(とうりん)」という新聞を年に数回発行していますが、真意は茂木、木村という両教授の木を合わせたものだったようです。「諸刃の剣」として、安全な面と危険な面、毒にも薬にもなるなどの例えがありますが、両刃のメスに由来する「ランセット」誌も年々進化する医療情報を的確にとらえて清濁を選び分け、正当な医療活動に向けての不動の軸足に期待したいものです。
 


 
 


 


 

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