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はあと文庫

耳寄りな心臓の話(第16話)『目から鱗の脈なし病』

『目から鱗の脈なし病』
高安右人 1860~1936

 

川田志明(慶応義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)


 血圧計や心電計もなく聴診と脈診だけが頼りだった時代に、脈の無い、脈が取れない病気の出現などはとんでもないことでした。その脈なし病が、今から丁度百年前に眼科医が学会で発表した眼底の血管の変化が発端となって明らかになった病気だったのですから、正に目から鱗が落ちた話だったのです。

目から鱗落ちた発表

 Takayasu.jpg手の脈が触れないことから脈なし病とも呼ばれる大動脈炎症群は比較的若い女性に見られ、わが国に比較的多い特異な動脈炎です。もともとは眼科医・高安右人(たかやすみきと)が明治41(1908)年の第12回日本眼科学会で「奇異なる網膜中心血管の変化の一例」として22歳の女性の眼底に花冠状血管吻合という特異な血管変化が起こって失明に至った例を発表しことが発端となったものです(図1)。
 高安は医学雑誌に手書きした詳細な眼底所見とともに、この女性は21歳で発病し白く透けるような顔貌であったが内科的疾患はなく、梅毒の所見もなかったと発表しています。
 当時は不治の結核にかかった色白の透けるような女性にたいして、佳人薄命とか美人薄命とかいって、短命だったり不幸だったりすることを嘆いたものです。
 この学会では、他の大学教授らからも「目下同様の眼底所見の患者あり、この患者の奇なるは両腕の撓骨動脈拍動を如何にしても触れざるにあり」との発言のあったことが記されています。その後50年以上も経って分かったことですが、大動脈から頭頸部に向う分枝の動脈が狭くなる病気であることが明らかとなり、このために眼底のほか頭頸部への血流も少くなって、顔面が色白に透けて見えたのです(図2)。
 脈の触れないことについては他大学教授からの指摘だったとしても、科学的検索によ眼底所見.jpgる極めて特異な眼底所見を報告したことが一つの症候群の存在を固める礎になったわけです。
 この眼科医の発表がきっかけで脈なし病の病態が明らかになったのですから、正に目から鱗が落ちた研究成果だったといっても過言ではありません。

大正天皇との僥倖

 高安右人は桜田門の変のあった万延元(1860)年に生まれ、明治20年に東大を卒業して眼科助手となり翌年に金沢の第4高等中学校医学科教諭となりました。同期に神経学のパイオニアとなった東大内科教授・三浦謹之助らがいます。
 明治32年にはドイツ・ライプチッヒ大学眼科などに2年間留学して帰国し、明治41年に脈なし病の発端となった報告を行ったのですが、その翌年金沢を巡啓中の皇太子との面白いエピソードが残されています。
 明治12年に誕生した明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王は生まれながらにして病弱で、東大内科の三浦謹之助教授は髄膜炎と診立てるなど生死をさまよう時期もありましたが奇跡的に回復し、その後は大の旅行好きとなられたようです。形式を嫌うざっくばらんな性格は大人気で、日本各地から御巡啓に来て欲しいという申し込みが殺到するほどでした(図3)。
 大正天皇.jpg以下は北国新聞に掲載された明治42年巡啓先の金沢で、ご案内の金沢医専学校長・高安右人に対しての質問の全容です。
 皇太子「見受けるところ、群衆中には眼病の者が多いようじゃの」。 高安「当地方にはトラホームが大流行にて-。8種伝染病に規り法律を制定して取締るの他なし」。
 皇太子「同じく伝染病じゃに、8種のみをやかましく言うてトラホームを等閑に付して置くのは内務省が不都合なのか。お前は足が強いか」。
 高安「あまり強い方にあらず」。
 皇太子「医師が足が弱いようでは、尻が重くていかぬ」。
 高安「患者側より往診の早からんことを迫らるるため、日常人力車のみを使用する結果、しぜん足も弱くなれり」。
 皇太子「うまく言うな」。

 高安は旧金沢医大の初代学長に就任し、昭和2年に退官後は金沢市内で眼科を開業しましたが、門前市をなすほどの盛業で、医学部近くの不動明神の滝水が高安の自宅の庭から流れ出たような形になっていたこともあって、この流水で目を洗うと眼病が治るとまでいわれたそうです。
 高安は住み慣れた金沢の山や川を愛し、加賀宝生流の謡や漢詩を趣味とし、晩酌も楽しんだと言われています。しかし、昭和8年に脳卒中で倒れた後は娘婿の高安慎一・九大教授が所長を務める別府温泉研究所近くに転居し、昭和13(1983)年に78歳の生涯を閉じました。
 胸像.jpg平成14年、金沢大学医学部正面前庭に、金沢医科大学初代学長の銘とともに髭を蓄え礼装に身を包んだ高安右人の胸像が建立されました(図4)。

高安動脈炎の確立

 戦後の昭和22年頃になって、脈なし症状のほかに高血圧、発熱、赤沈亢進を認め、さらにふらつきや意識消失などの頸動脈洞反射亢進が注目されるようになりました。脳血管撮影によって大動脈弓部の主要分枝に炎症性狭窄が起こっていることがわかり、その結果として頭頸部や眼底への血流が減少し、腕の撓骨動脈の拍動が触れなくなることが判明しました。発症時の脈なし状態は20%のみに見られますが、全経過を通しては約75%に認められることもわかりました(図5)。
 早くから本疾患の随伴病変に注目した東大脳外科の清水、佐野教授らによって、①撓骨動脈拍動が触れない、②眼底の花冠状血管吻合、③頸動脈洞反射亢進を三主徴とする「脈なし病」として発表され(1984)、のちに国際分類で高安動脈炎あるいは大動脈弓症候群と呼ばれるようになったのです(図6)。
 原因は未確定ですが、何らかの免疫反応を伴う炎症のあることは確かで、分子生物学的・遺伝子的異常が指摘されるなど新しい展開を見せています。急性期にはステロイド剤がある程度有効ですが、慢性期には効果が望めません。生命に関する予後は良好ですが、難病の一つとして、現在では医療費の自己負担分を補助する特定疾患に定められています。

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