日本心臓財団刊行物

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耳寄りな心臓の話(第44話)『ジャンヌ・ダルクの奇跡の心臓』

『ジャンヌ・ダルクの奇跡の心臓 


川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)



 NHK・TVの大河ドラマ『八重の桜』がスタートし、会津の若松城に籠城してスペンサー銃で戦った男装の新島八重を幕末のジャンヌ・ダルクと評する向きがあります。もとのフランスの国家的危機を救ったとされるジャンヌ・ダルクは「救国の乙女」として、つねにフランス人の心に蘇り、自ら帝位について第一帝政を開いたナポレオンそれに新憲法のもとに初代大統領となったドゴールまでが自らを彼女になぞらえています。ジャンヌの結末は悲惨で、市民の見守る中で異端者として火あぶりの刑に処されたのですが、薔薇色の心臓だけが焼け残り、聖人にみられる奇跡の心臓、聖心と畏れられました。



英・仏百年戦争の終結
 14世紀半ばから百十数年にわたって、フランスを戦場に英仏間で断続的に戦争が行われていました。イングランド王がフランス国内に領土を有し、フランス王位継承権を争ったのが発端でした。終結に向けてフランスのシャルル6世とイングランドのヘンリー5世が署名した1420年のトロワ条約には、ヘンリー5世はシャルル6世の娘キャサリンと結婚し、シャルル6世なき後の王位はヘンリー5世および彼の子に継承され、二つの王位を統合するとされていたのです(図1)。44図1.jpg44図2.jpg 1442年にシャルル6世が亡くなり、次いでヘンリー5世も亡くなったため、条約通りにイギリスのまだ幼いヘンリー6世がフランス王位につくかどうかで紛糾し、再び交戦状態となりました。当時パリの南西116キロのオルレアンがフランス王家の拠点でしたが、イングランド軍に包囲されていました。突如、この危機を救うべく神のお告げを受けたしてオルレアンの少女,ジャンヌ・ダルクは兜に身を包み白馬にまたがって軍旗を捧げ、仲間の兵隊を鼓舞しながら突撃を敢行しました。押され通しだったフランス軍はついにオルレアンを7ヵ月振りに包囲網から解放したのです。ジャンヌは神託に基づき王太子シャルルが歴代の国王と同じにランスの大聖堂で7世として戴冠式をあげることを主張しました。このため、フランス北東部のランスまでの都市を次々と傘下に入れ、ついにランスの大聖堂でフランス国王シャルル7世の戴冠式が挙行されました(図2)。
 さらに国王の地位を盤石なものにせんと首都パリの奪還を目指して進軍したジャンヌ一行でしたが、彼女はイングランド軍に捕らえられてしまいました。
 

オルレアンの乙女の公開火刑

 何回かにわたって開かれたジャンヌに対する宗教裁判では異端者と決め付けられ、最も苛烈な火刑と断じられました。その残虐な刑罰方法もさることながら、体が灰燼に帰しては最後の審判の際に復活すべき肉体がなくなってしまうという絶望感でした。しかも群衆に裸体をさらされるという屈辱も受け、燃え盛る炎のなかで神の名を叫びながら息絶えた19歳の乙女でした(図3)。44図3.jpg
 しかし、不思議なことに焼け爛れた亡骸の中で心臓だけが焼け残って薔薇色に輝いていたというのです。何度も燃料が加えられ、どれほど炎になめられても、ジャンヌの心臓は燃え尽きなかったのです。これをみて、群衆は「やはりジャンヌは聖女だったのだ」と口々に叫びながら騒ぎました。正に、奇跡の心臓、聖心と信じたのです。この事件は内乱状態だったフランスに和解をもたらし、一致団結したフランス軍はイギリス軍をブリテン島に追い出して百年戦争に終止符を打ち、両国はそれぞれ独自の道を歩みだしました。



サクレ・クール寺院の騎馬像
 この頃、キリストの心臓を愛を表す特別なもの、すなわち「聖心(サクレ・クール Sacre-Coeur)」として信心する風潮が強まっていました。このため、ジャンヌを聖女と崇めた人々には彼女の薔薇色に焼け残った心臓も聖心にみえたのでしょう。曲折を経て1800年にはフランスのマグダレナ・ソフィア・バラによってカトリックの女子修道会として「聖心会」が創設され、フランス各地にサクレ・クール寺院が建てられ、女子の学校教育に力を入れて世界各地に聖心女子学院が作られましたが、わが国の美智子皇后や韓国の朴槿恵大統領の母校でもあります。
 パリの北部に位置し、多くの芸術家が集まり、近代美術の揺籃地でもあるモンマルトルの丘はもともと石灰岩の採掘場であり、麓はムーラン・ルージュなどの歓楽街となっています。その石灰岩で造られた白亜のサクレ・クール・バジリカ大聖堂がモンマルトルの丘を際だてており、その正面には高さ5メートルを越す巨大な青銅の騎馬像がありますが、この右手に剣を捧げた勇ましい乙女像こそ百年戦争の英雄で聖人となったジャンヌ・ダルクなのです(図4)。44図4.jpgのサムネイル画像


ジャンヌのリハビリテーション
 リハビリといっても、牢獄に繋がれた若きジャンヌが運動不足のためにリハビリを始めたわけではありません。ジャンヌが処刑されてから25年後の1456年、フランスのシャルル7世の最終的な勝利とともにジャンヌに対する再審が行われ、異端者であるとの宣告が取り消されたのですが、この再審こそ世にいう「リハビリテーション裁判」だったのです。つまり、無実の罪の取り消し、破門を取り消すといった全人間的な名誉や尊厳の回復がリハビリテーションだった訳です。
 後年、医学では疾病や外傷の後遺症をもつ人に対して、医学的・心理学的な指導や機能訓練を施し、機能回復・社会復帰をはかることにリハビリテーションという用語を用いるようになりました。刑務所出所後の「更正」のための職業訓練や授産事業もリハビリテーションであり、一度失脚した政治家の政界復帰もリハビリなのです。 宗教裁判については、ジャンヌの後の1553年にはスペインの医学者・神学者セルベトウスが血液循環説を支示し三位一体説を批判したことなどで異端者として火あぶりの刑に処せられましたが、1908年になってフランスのアンヌマスという都市のセルベトウスが処刑された場所の近くに記念碑が建てられました。
44図5.jpg1633年にはコペルニクスの地動説を支持したガリレオが「それでも地球は回る」と頑に唱えたために、宗教裁判では異端者とされ禁固刑に処されて、その10年後に病死してしまいました。1965年になってバチカンではガリレオの裁判見直しが始まり、1992年ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はガリレオの裁判に誤りのあったことを認め、ガリレオの墓に詣でて謝罪しました。ガリレオの死去から実に350年後のリハビリテェーションでした(図5)。
 
 
ジャンヌのリハビリテーション
 リハビリといっても、牢獄に繋がれた若きジャンヌが運動不足のためにリハビリを始めたわけではありません。ジャンヌが処刑されてから25年後の1456年、フランスのシャルル7世の最終的な勝利とともにジャンヌに対する再審が行われ、異端者であるとの宣告が取り消されたのですが、この再審こそ世にいう「リハビリテーション裁判」だったのです。つまり、無実の罪の取り消し、破門を取り消すといった全人間的な名誉や尊厳の回復がリハビリテーションだった訳です。
  


 
 
1442年にシャルル6世が亡くなり、次いでヘンリー5世も亡くなったため、条約通りにイギリスのまだ幼いヘンリー6世がフランス王位につくかどうかで紛糾し、再び交戦状態となりました。当時パリの南西116キロのオルレアンがフランス王家の拠点でしたが、イングランド軍に包囲されていました。突如、この危機を救うべく神のお告げを受けたしてオルレアンの少女,ジャンヌ・ダルクは兜に身を包み白馬にまたがって軍旗を捧げ、仲間の兵隊を鼓舞しながら突撃を敢行しました。押され通しだったフランス軍はついにオルレアンを7ヵ月振りに包囲網から解放したのです。ジャンヌは神託に基づき王太子シャルルが歴代の国王と同じにランスの大聖堂で7世として戴冠式をあげることを主張しました。このため、フランス北東部のランスまでの都市を次々と傘下に入れ、ついにランスの大聖堂でフランス国王シャルル7世の戴冠式が挙行されました(図2)。
さらに国王の地位を盤石なものにせんと首都パリの奪還を目指して進軍したジャンヌ一行でしたが、彼女はイングランド軍に捕らえられてしまいました。
 
オルレアンの乙女の公開火刑
 何回かにわたって開かれたジャンヌに対する宗教裁判では異端者と決め付けられ、最も苛烈な火刑と断じられました。その残虐な刑罰方法もさることながら、体が灰燼に帰しては最後の審判の際に復活すべき肉体がなくなってしまうという絶望感でした。しかも群衆に裸体をさらされるという屈辱も受け、燃え盛る炎のなかで神の名を叫びながら息絶えた19歳の乙女でした(図3)。
  


 

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