日本心臓財団刊行物

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耳寄りな心臓の話(第10話)『ヘボン博士と義足芝居』

『ヘボン博士と義足芝居』
−H.C.ヘプバーン 1815−1911−

 

 

10-01.jpg川田志明(慶応義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)

 
 ペリー来航5年後の1858年に江戸幕府との間に締結された日米修好通商条約のニュースをニューヨークで耳にした開業医J.カーティス・ヘプバーンは、北米長老派教会の宣教医として日本派遣を申し出て翌安政6年に開国まもない神奈川に上陸しました。ペンシュルバニア大学の医科出身の博士はニューヨークでの13年間の開業で名医とうたわれ、富と名声を得るも東洋での伝道の志は消しがたく、私財を投じて日本に向かったのです。

 

 

ヘボン式ローマ字
 『招かざる客』や『黄昏』『旅情』などでアカデミー主演女優賞を4回も受質した大女優のキャサリン・ヘプバーンの一族とつながる博士でしたが、日本人には「ヘボン」と聞こえたため、「ヘボン先生」と親しみを込めて呼ばれ、自らも「平文(ヘイブン)」と称していたそうです(図1)。


 ただちに横浜居留地で日本人の施療を開始しましたが、教育に熱心だったクララ夫人とともに男女共学の「ヘボン塾」も開き、佐倉順天堂の蘭方医・佐藤泰然の長男で後に外務大臣を務めた林薫(ただす)、仙台藩出身で総理大臣になった高橋是清(これきよ)、日本初の医学博士で東大病理教授となった三宅秀などを育てて明治文化への魁(さきがけ)となり、その後「ヘボン塾」はフェリス女学院や明治学院の前身となりました。


 日本語の研究と「和英辞典」の編纂にも努めましたが、この辞典に使われたローマ字がいわゆる「ヘボン式ローマ宇」の元となりました。ヘボン式では撥音のB、M、Pの前にNの代わりにMをおき、Shimbashi(新橋)、Ho?a(本間)、Sampei(三瓶)などとする特徴があります。さらには、「新約聖書」や「旧約聖書」の翻訳にも取りかかり、戦後1955年の「口語訳聖書」の登場まで「明治訳」として使用されました。


 帰国するまでの33年間に、内科・外科・眼科など様々な病気の治療・手術を手掛けましたが、なかでも日本初の西洋目薬「精綺水(せいきすい)」を販売して評判の点眼薬となり、またわが国初の下肢切断手術を歌舞伎俳優・三代目澤村田之助(たのすけ)の脱疽に対して行ったことは余りにも有名です。

 

名女形・田之助の義足
 三代目澤村田之助は、「切られお富み」や「笹森おせん」などで艶やかな芸を披露して16歳の若さにして名女形とうたわれました。さらに江戸市中では、「田之助髷(まげ)」や「田之助下駄」など彼の名を冠した商品が売り出されるほどの人気で、九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎と並ぶ大立者になるものと期待されましたが、稽古中の怪我から足の脱疽に侵され舞台が続けられなくなりました。


 名優の足をむしばむ壊疽の進行を防ぐべく、蘭方医・佐藤泰然とその次男で幕府医学所取締だった松木良順らの進言で、ヘボン博士の執刀のもとクロロフォルム麻酔下に右下肢切断術を受けました。田之助22歳、慶應3年でしたが開国間もない当時の日本で、この難しい手術や麻酔ができたのはアメリカから来たばかりの平分(へいぶん)先生しかいなかったようです。


 右膝の上3センチでの切断でしたが、傷が癒された後の田之助はヘボン博士がアメリカから取り寄せたわが国初の義足をつけて、博士らの前でお礼興行を行い、足のない名優による「義足芝居」として大喝采を博しました。当時の横浜の俗謡に「ヘボンさんでも草津の湯でも、恋の病はなをりゃせぬ」と歌われたほど、日本人に親しまれた平文先生でした。


 ところが、田之助の脱疽はさらに悪化して左足の切断も必要となり、博士が一時帰国中のため弟子の医師・南部精一の執刀で手術が行われましたが、さらに両手の指までもが悪化して左手の小指以外の指をことごとく失い、ついに28歳で舞台を引退せざるを得なくなり、最後は精神にも変調も来し34歳の若さで「花に嵐の生涯」を終えました。

 

『煙草一本、指一本』
 足には血管の病気が多く、一般に閉塞性動脈硬化症といえば足の病気です。じっとしているときは良いものの、歩くと足の筋肉の酸素不足がおこり、痛みのために一時休まねばならなくなるなど、まさに足の狭心症です。


 さて、喫煙は癌の最も大きな原因とされていますが、血管や心臓自体が初めから癌に犯されることは希です。しかし、喫煙が動脈硬化で狭くなった血管を収縮させ、狭心症を誘発する心配はあります。これとは別に、煙草の悪影響をまともに受ける業な足の血管病があります。バージャー病あるいは特発性脱疽と呼ばれるもので、動脈硬化症とちがい比較的若い男性の喫煙者に多い病気です。


 現在ではフォンティン分類に従って薬物治療のほか血栓内膜除去術やバイパス術、さらにはバルーン付きカテーテルを用いた経皮的動脈形成術などが実施されますが、壊疽といわれて腐りだした部分は切除するしか手がありません。


 インターン生の頃お世話した喜劇俳優の「エノケン」こと榎本健一さんもこの脱疽で片足を落とし、義足で舞台を続けられましたが、入退院を繰り返された病室の枕頭には何時もピースの箱があり最後まで煙草は止められなかったようです。


 業(ごう)な病にとりつかれたと贔屓筋(ひいきすじ)の涙を誘った立女形(たておやま)・田之助もエノケンさんと同じ脱疽だったと思われますが、この頃は煙草が最大の敵であることはわかっていませんでした。


 現在では煙草がこの病気を悪化させることは明らかであることから、煙草の悪影響を何度説明しても禁煙が守れず次々と指を落とす方をたくさん診てきました。禁煙しているかどうか今では血液検査でわかり、診察の度に「煙草一本、指一本」とズバリ強い言葉で論すものの、ヘビースモーカーにはなかなか難しい選択のようです。


 さて、ヘボン先生は44歳で日本にきて、途中2度の帰国をはさんで33年間滞在し、1892(明治25)年に77歳で帰国しましたが、晩年はニュージャージ州のイースト・オレンジで静かな余生を送り、明治38年勲三等旭日章を受賞し、明治44年に96歳で亡くなりました。奇しくも、この日の早朝、初代総理を務めた明治学院のヘボン館、「和英辞典」の版権を全額寄付して建てられた寄宿舎でしたが、原因不明の出火で焼失してしまいました。翌日になって訃報が人り、"Do for others"をモットーにした明治学院創立時の功績をしのびつつ、ヘボン館はヘボン先年とともに天に捧げられたのだという人もありました。

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