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耳寄りな心臓の話

耳寄りな心臓の話(第13話)『巨星、墜つ!心臓血管外科の厳父』

『巨星、墜つ!心臓血管外科の厳父』
-マイケル・ドベイキー1908- 2008-

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川田志明(慶応義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)

90歳という高齢をすぎてからも心臓血管外科のメスを執ってきたベイラー医科大学名誉学長で、メソジスト病院最高顧問のマイケル・ドベイキー教授が100歳を目前にして本年7月11日に逝去されました(図1)。

20世紀を生き抜き70年間以上を現役の外科医として活躍し、数々の手術法や70種類以上の手術器具を考案し、500名以上の外科医を厳しく育て上げ心臓血管外科の厳父とも呼ばれた巨匠の足跡を辿ってみます。

 

 

 

ミシンで縫った人工血管
 1908(明治41)年8月、アメリカのルイジアナ州で出生したドベイキーはチューレン大学に学び、医学生時代にすでに人工心肺装置の要となる血液ローラーポンプを開発するなどの輝きをみせています。             

 

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第二次世界大戦に従軍し、陸軍の移動手術病院車を開発したことで注目されました。1940年代にはじめた同種大動脈の移植手術でドナーが不足したこともあり、1953年には夫人のミシンを用いてダクロン繊維布で人工血管を作り、腹部大動脈瘤に対する初めての人工血管置換術に成功しました。人工血管の材質にはダクロンのほかテフロンも加わって製品化され、これを契機に大動脈外科に力を入れました(図2)。

 致命的な大動脈の病気である解離性大動脈瘤のドベイキー分類を提唱し、今日でも彼の病型に応じて降圧療法を選択するか外科手術治療に踏み切るかの選択が行われています(図3)。

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 1961年、人類最初の宇宙飛行ではソ連に先を越されたアメリカはケネディ大統領の指示で1969年末までに宇宙飛行士を月面に着陸させ地球に帰還させることを目的にしたアポロ計画がスタートし、これに次ぐ国家プロジェクトとして人工心臓計画が推進されました。

 

 ベーラー大学のドベイキーらも人工心臓計画をすすめ、NIH(国立衛生研究所)から450万ドルもの研究費を獲得し、リオッターらが中心になり補助循環の研究を進めましたが、1968年に最初の心臓移植が行われたこともあり、5年で研究費は打ち切られました。ケネディ大統領の宣言どおりに、
1969年の7月20日にアポロ11号が初めて月面に到達し、以後5回の着陸を果たしましたが1972年を最後にアポロ宇宙計画も打ち切られました。

 

朋友クーリーとの確執

 この頃、ベイラー大学の外科にはドベイキーとともに12歳年下の俊英デントン・クーリーがおり、1962年には教授に昇進していましたが、ドベイキーとは研究上のことで衝突して袂を分ち、隣に設立されたテキサス心臓研究所病院に移って多くの心臓血管手術を手掛ます。新しい研究施設として研究費が潤沢で、研究費不足のために喘いでいたベイラー大学のリオッターを誘いますが、彼はベイラー大学に籍をおいたまま自宅のガレージを研究室にして時間外を完全置換型人工心臓の研究に当てました。

 


 1969年3月5日、クーリーは左心室瘤術後の回復困難例に10例目の心臓移植を考えましたがドナーがなく、現れるまでの繋ぎとしてリオッターが作成した完全置換型人工心臓を植え込んだのです。ところが、ドベイキーはNIHの研究費で開発を進めていた人工心臓をクーリーが意図的に真似たと主張し、提訴を受けたアメリカ外科学会の中央司法委員会はクーリーを譴責処分とし、年次総会で症例を公表することを義務付けました。

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 ほぼ同時にスタートした人工心臓開発計画とアポロ宇宙計画という二大国家プロジェクトでは人工心臓の方に軍配が上がったかに見えましたが、人工心臓の植え込みには限界のあることが分かり、現在では数年の植え込みに耐えれる補助人工心臓の開発が進み、心臓移植までの繋ぎや重症心不全の治療に用いられるようになっています(図4)。


 1973年1月、著者は海外技術援助計画の専門家として派遣されたブラジルからの帰途、ヒューストンのメソジスト病院とテキサス心臓研究所の病院を交互に訪問し、ドベイキー、クーリー両先生の執刀による手術を見学する機会がありました。しかし、渡り廊下で結ばれた両病院の間には、未だ冷めやらぬ火花が散っているのを感じたものです。

 

大動脈解離手術の最高齢者
 ドベイキーは雑誌『タイムス』1965年5月号の表紙を飾ったことで名声は世界的に広がり、大女優のマーリン・ディトリッヒや歌手のフランク・シナトラの主治医を務め、1966年にはジョンソン大統領の医学厚生顧問として高齢者向けの公的医療保険制度・メディケアの導入を進言し、彼の主治医にも
なりました。1996年にはロシアのエリツィン大統領の冠動脈バイパス手術では現地で指揮をとったことも大きなニュースになりました。


 1998(平成10)年、満90歳になったドベイキーは第51回日本胸部外科学会総会(小柳仁会長)で招請講演を行い、帝国ホテルでの会長招宴にも元気な姿をみせました(図5)。13-06.jpg

 しかし、2005年の大晦日に急に胸背部痛に襲われ急性大動脈解離と診断されました。ドベイキー自身が分類した病型では?型解離に分類されるもので、全身状態が悪化して自己決定が困難となったため、ベーラー医科大学倫理委員会が手術の実施を決めたとのことです。2006年2月9日に長時間の手術が実施され、この疾患で手術を受けた最高齢者となってしまいました。8か月の入院を
余儀なくされましたが、同年8月には健康を回復され、ドベイキー記念図書館の地鎮祭に出席できたほどでした。

 

議会名誉黄金勲章に輝く
 その後、テキサス心臓研究所からドベイキーに特別功労賞が贈られたこともあって、両先生の40年にもわたる長い間の確執もついに解けたようでした。また、ドベイキーの生涯を掛けた医学への功績に対しアメリカ連邦議会から議会名誉黄金勲章が授与され、2008年4月に挙行された祝賀会にはクーリーも招待されて祝意を述べたのです。文民に対する合衆国最高位の勲章とされる名誉黄金勲章が科学者に与えられた例は少なく、わずかに電灯や電信を発明したトーマス・エディソン、黄熱病の撲滅に貢献した軍医ウォルター・リードに次ぐものでした。


 強靭な精神力の持ち主だった厳父も、2008年7月11日にメソジスト病院において眠るがごとく逝去されました。7月16日、遺体は初めてのこととしてテキサス州のヒューストン市民ホールに安置され、聖心大聖堂で執り行われた厳粛な葬儀の後に、陸軍省長官によってバージニア州のアーリントン国立軍人墓地に埋葬されました。

 

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