日本心臓財団刊行物

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耳寄りな心臓の話(第24話)『心臓を動かしたリンゲル液』

『心臓を動かしたリンゲル液 
S・リンガー 1835 - 1910 
北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943 -北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943- -北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943- -北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943- -北里柴三郎1852-1931 /鈴木梅太郎1874-1943-  

 

川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
 


  補液剤として大量出血、下痢、嘔吐などによる脱水状態などの際に注射されるリンゲル液(リンガー液とも)の発見は、イギリスの生理学者で内科医でもあったシドニー・リンガーが蒸留水の代わりに水道水で割った生食水での不純な実験が発端となりました。弟のフレデリック・リンガーは長崎で貿易業やホテル経営で成功し、ロンドン大学へ寄付した講座教授には兄のシドニー24回図1.jpgのサムネイル画像が選ばれて長く医学教育にあたりました。弟のリンガー一族が太平洋戦争開戦まで住まいした住宅はグラバー園に現地保存され、旧グラバー住宅とともに重要文化財に指定されています。因みに、長崎ちゃんぽんのチェーン店「Ringer Hutリンガーハット」もこの旧リンガー住宅から名前をとっているようです。2010年は、リンゲル液を発見したシドニー・リンガーの没後100周年記念の年でもあります。

蒸留水の代わりに水道水で


 イギリスの生理学者で内科医のシドニー・リンガーSydney Ringer はカエルの心臓の潅流実験で、蒸留水に塩化ナトリウムを加えた純粋な生理的食塩水よりも水道水で作った食塩水の方が潅流時間が延長され、収縮力も強く維持されることに気づき、水道水に含まれる僅(わず)かなカリウムやカルシウムが心臓の収縮に重要であることを見つけたのです。たまたま助手が蒸留水を切らしたために水道水で間に合わせた実験でのセレンディピティーな発見でしたが、この顛末を述べた1883年の生理学会誌への論文発表はセンセーショナルなものでした。
 リンガーはこの実験で「Ca:カルシウムを減らすか K:カリウムを増やすか、または両方を組み合わせるか」で心臓が旨く止まることも発見しており、1950年代になって心臓外科医は開心術中に意図的に心停止を起こす方法としてKを用い、また血液中のK,Ca濃度は心機能障害のメカニズムの解明にも役立ちました。
 それまでは約0.9%の食塩水が細胞内液や体液、血液と等しい浸透圧(等張:とうちょうという)をもち体内に注入しても細胞の形が保たれることから、生理的食塩水(生食:せいしょく)として多くの実験に用いられていました。さらに、より生理的な塩類溶液としてリンゲル液が開発され、今度は実験以外に治療目的で大量皮下注射や点滴などの輪液剤としても用いられるようになったのです。
 S・リンガーは内科医としてロンドンのグレート・オーモンド街にある小児病院、今では小児心臓手術で世界的に有名な病院に内科医として勤務しながらの研究でしたが、長崎で成功した弟のフレデリック・リンガー Frederick Ringer らが寄贈した大学の寄付講座の教授となって実験研究の傍ら臨床内科教授を長く務めました。彼が「臨床医の魂」すなわち「臨床医が患者の死に立ち会ったときの心得」として、医学生によく言っていた言葉、“Duty first,pleasure after(先ず本分を尽くせ、満足するのは後で)”が残されています。耳寄り24話   図2.jpg

※セレンディピティー:求めずして思わぬ発見をする能力。思いがけないものの発見。運よく発見したもの。偶然の発見。

旧リンガー住宅からリンガーハット


 弟のF・リンガーはグラバー商会の招請で長崎に来日し、同商会ののれん分けとして1868年(明治元年)には仲間のホームとともにホーム・リンガー商会を設立して貿易のほか、外資銀行の誘致や捕鯨、近代建築の技術などを日本に伝え、グラバーよりも多く我が国の近代化に貢献しました(図2)。
 先に来日していたトーマス・グラバーは、1861年にグラバー商会を設立して日本茶の輸出のほか幕府諸藩に武器・弾薬それに軍艦などを売り巨利を収めました。長崎港を見下ろす丘に立つグラバー邸は、美しい芸者・蝶々さんとアメリカ海軍士官・ピンカートンとの悲恋を描いたオペラ「蝶々夫人」ゆかりの地ともされております。日本が生んだ名ソプラノ歌手・三浦環(たまき)が2000回にも上る出演を果たし、アリア<ある晴れた日に>は特に知られています。戦後アメリカ占領軍が同住宅を接収して「マダム・バタフライハウス」と呼んだこともあり、グラバーやリンガーとは歴史的なつながりはありませんが、その偉業を伝えるためにグラバー園には「三浦環の像」が建立されています(図 3、4)。耳寄り24話 図3,4.jpg
 F・リンガー一族が太平洋戦争開戦まで住まいした旧リンガー住宅はグラバー園に現地保存されて旧グラバー住宅とともに長崎の異国情緒を伝える観光の名所となり重要文化財に指定されています(図5)。
因みに、長崎に本店のある外食チェーン店ちゃんぽんの「Ringer Hutリンガーハット」はリンガー住宅のリンガーに明るく響きのいい小さな家(hut)か、アメリカの有名な外食チェーンピザハット(Pizza Hut)を絡ませた社名のようです(図6)。耳寄り24話 図5.jpg







logo_shop_ringerhut.bmp




 





輸液・輸液剤の歴史


 1831年に大流行したコレラが激しい下痢によって大量のナトリウムが失われ、脱水の起こることが死因であることに気づいたイギリスのトーマス・ラッタが塩化ナトリウム(食塩)0.5%と炭酸水素ナトリウム(重曹、ベーキング・パウダー)0.2%を含む溶液を注射して顕著な効果をあげたのが輸液療法の始まりで、その50年後の1883年にカリウムやカルシウムを加えたより生理的なリンゲル液が登場したことになります。
 輸液療法の絶大な効果を世に示したのは1920年代になって小児科医のマリオットらが急性乳児下痢症にリンゲル液などの輸液製剤を投与して死亡率をそれまでの90%から10%にまで低下させたことでした。この下痢症は今24回図7.jpgでいう乳幼児のロタウイルス腸炎やO-157病原性大腸菌感染によるものと考えられます。リンゲル液の開発から50年後の1932年には、アメリカの小児科医ハルトマンによってリンゲル液に乳酸を加えたハルトマン液(乳酸リンゲル液、@ラクテックなど)が開発され、輪液剤として広く臨床に普及するとともに第二次世界大戦では輸血が十分でなかった野戦病院には不可欠なものとなりました(図7)。
 輸液の成分も単なる電解質の補給に止どまらず、栄養補給を目的としたブドウ糖やアミノ酸などのタンパク質、それに脂肪成分まで含まれるようになりました。静脈投与法も腕などの末梢静脈からの点滴注射だけでなく、長期にわたり口からの摂取が出来ない例には細い管を上大静脈や心房近くに留置して行う中心静脈栄養法も普及しています。大量の静脈血流によって希釈されることで末梢静脈注射のような静脈炎を起こす心配がなく、長時間掛かっても血管に傷害を与えずに高カロリーなど持続的栄養補給が可能になったのです。
 
 

 


 

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